Wlelcome aboard!! Sorry, This site is Japanese contents only
Sailing Navy Home
サイト内検索
メインメニュー
サブメニュー
Log & Forum
著作権&リンクポリシー
Age of Sail
Age of Sail乗組員 / 艦上の食 / 王国海軍におけるラム酒考
Counter: 3656, today: 1, yesterday: 3
Page Top

「ラム酒」とは anchor.png

 サトウキビから砂糖を生成する過程で出る廃糖蜜(molasses)を原料に、アルコール発酵後、蒸留し、樽で熟成させることで作られる蒸溜酒(Spirits)です。

 サトウキビの原産地は現在のニューギニア島あたりと考えられており、それがインド、東南アジアに広まった物と考えられています。そして最初のサトウキビの酒(醸造酒)は、古代イランから古代中国の間のどこかで作られたのでは無いかとはないかと考えられています。というのも14世紀マルコ・ポーロの「東方見聞録」に現在のイランで「大変素晴らしい砂糖ワイン(very good wine of sugar)を勧められた」との記述があるからです。ただし、その後、これらの地域では、それを蒸留した酒つまりラム酒は生まれませんでした。

 その後ポルトガル、スペインによるいわゆる「大航海時代」の始まりにより、ポルトガル人、もしくはスペイン人の手により、サトウキビがコロンブスのバハマ諸島到達以降、バハマ諸島、カリブ海の島々、西インド諸島、ブラジル、北アメリカ南部等の土地に持ち込まれ、奴隷を使ったサトウキビ栽培のプランテーションにより砂糖の一大産地となり、17世紀初め頃スペイン人の手によりバルバドス島で生まれた蒸溜酒(Spirits)です。ただし、ブラジルでもポルトガル人の手により1620年代に生まれたとする説もあります。文献上では、1651年のバルバドス島で作られていたことが記録されています。
 初期のラム酒は樽熟成されていなかったものと推測されますので、単式蒸溜機で1回もしくは複数回蒸溜された無色透明の液体でアルコール度数は約40~約80度と高くかなり荒々しい味だったはずです。というのも17世紀フランスでのブランデーは現在のように樽熟成されていない、蒸留したままのアルコール度数の高い(約40~約80度)無色透明のきつい味と香り薄い蒸溜酒(Spirits)だったからです。アイリッシュ、スコッチ・ウィスキーも同様です。  現在では地域により異なりますが最低1年の樽熟成されたものがラム酒として認められ、アルコール度数も40度~75.5度、色も無色のホワイト・ラム(樽熟成後活性炭で濾して無色透明にします)、薄い褐色のゴールド・ラム、濃い褐色のダーク・ラムと醸造所によってさまざまなラム酒が入手可能です。

Page Top

英国海軍でのラム酒配給の始まりと終わり anchor.png

 英国海軍におけるラム酒の配給の歴史は、1655年にさかのぼります。
 英国が護国卿クロムウェル率いるイングランド共和国であった1655年5月ペン提督率いる英国海軍とベナブルズ将軍の英国陸軍が、ジャマイカ島をスペインの手から攻略しました。この後、ジャマイカ島原産のラム酒2ジル(284ml)もしくは1/2パイント(284ml)がブランデー、ワインに代わり配給されたことに始まります。

Jolly Tar Grog.jpg

 一説によると人間は一日に1.5Lほどの水分の補給が必要とされます、当然木造帆走軍艦の時代も大量の真水を樽に詰めて、船倉に積んでいましたが、塩漬け肉の塩抜きに大量の真水を必要としますし、また長期の航海では真水に藻などが生えて飲料には適さなくなりました。

 そこで飲み水の代わりとなったものが酒類です。王国海軍の海軍委員会(Navy Board)配下、軍需部食料局(Victualling Board)が自らタワー・ヒル(Tower Hill)の醸造所で醸造した薄いビール(Small Bear アルコール含有量2%程度。現代のBassで4.4%、Guinnessで4.1~4.3%です)を、1日1ガロン(約4.5L)4回に分けて配給しました。ビールは醸造の過程で火を通し沸騰させるため、雑菌が死に真水より長持ちしました。しかし、長期の航海となると炭酸が抜けて、酸っぱくなってしまい飲用には適さなくなりました。

 ビールが無い場合の代替としてワインを1日1パイント(568ml)配給することが規則で定められていましたので、ビールが切れるとワインが配給されました。ワインは醸造の過程で火を通しませんが、アルコール含有量がビールより多いため(当時アルコール含有量11~13%)、水よりは長持ちししました。しかし、ワインも酸化が進み酢になり、最後は飲用には適さなくなりました。アルコールを添加して、アルコール強化ワインが飲まれていた時期もありましたが、普通のワイン同様酸化が進み最後には飲用に適さなくなりました。

 あと、ワインは輸入先も問題でした、フランス、スペインと戦争をしていない時は、フランス、スペインから輸入できるのですが、1700年代を通じ度重なり英国は大陸と戦争をしていましたので、輸入先はポルトガル、イタリアかシシリー島(シチリア島)になり、艦隊がもっぱら地中海で作戦行動中にワインは配給されました。ちなみにジブラルタルのブラック・ストラップ湾に停泊すると配給が始まったので、水兵はブラック・ストラップと呼んでいました。安価な赤ワインでした。

 蒸溜酒(Spirits)の場合、長期の航海でも腐らないので、英国海軍においては、いつからか蒸溜酒(Spirits)(安物のブランデーが中心、しかも樽熟成のされていないもの、ブランデーで樽熟成が始まるのは19世紀に入ってから)も積み込むようになりました。ただし1600年代英国におけるブランデーという名詞は果実酒を原料とする蒸溜酒(Spirits)すべての名称なのでブドウが原料だったとは限りません。リンゴの蒸溜酒(Spirits)カルヴァドスも古くはアップル・ブランデーと呼ばれていました。他の原料として洋梨、サクランボ、桃のブランデーがありました。)が、ビール、ワインが無くなった場合の代替として1日1/2パイント(284ml)配給されることになっていました。
 ラム酒の配給が始まる前には、艦隊がいる海域で配給される蒸溜酒(Spirits)が異なりました。英国海峡、ビスケー湾、地中海ではブランデー、東インド諸島ではアラック(ココナッツ酒)、西インド諸島ではブランデーでした。

 1655年以降、カリブ海の島々、西インド諸島の占領、植民地化、奴隷を酷使したサトウキビ・プランテーションの増加に伴って、砂糖を作る過程で生まれる廃糖蜜を原料としたラム酒が大量に生産され。輸入品のブランデー、アラックに代わり、自国の植民地で安く購入できるラム酒に置き換わりました。これには西インドのサトウキビ・プランテーション、砂糖、ラム酒製造に関わる商人による強い政治的圧力も有りました。

  しかし、毎日1/2パイント(284ml)支給されるラム酒を数日分溜め置いて、一度に飲んでしまい泥酔する水兵が相次いだことから、西インド戦隊を指揮していたエドワード・バーノン海軍中将の命令により、1740年8月21日、生のラム酒では無くラム酒1/2パイント(284ml)を4倍の水1クォート(約1.1l)の水で割ったものを正午と夕方、半分ずつ配給されることになりました。しかし、これを不平に感じた水兵はバーノン提督がいつもグログラム織のコートを着ていたことから、オールド・グロッグと呼ぶようになりいつしか、ただ「グロッグ(Grog)」と呼ばれるようになりました。つまり、現在カクテルとしてのグロッグは当初ラム酒の単なる水割りだったのです。この水割りラム酒の配給は、それ以前に藻のわいた水をラム酒で割ることにより何とか飲める水になることが知られていたものによります。
 又この頃のラム酒は海軍委員会(Navy Board)軍需部食料局が完全に管理していなかったので、艦隊、艦艇毎に購入しており、アルコール度数は、ネルソンの時代よりも高く、約60度~約80度程度であったとする説がありますが、私は真実だと思います。
 このエドワード・バーノン海軍中将の1740年8月21日付けの旗下の艦長への命令書には面白い一文があります「また、良い行いをするものは、塩分の補給やパンを節約して、砂糖やライムを購入して、より美味しく食べられるようにすることができる。」というものです。命令書には西インド諸島で安易に調達可能なライムを何のために購入しても良いのか書かれていませんので、壊血病と関係があるのか、無いのかが解りませんが、もしこれが壊血病に関するものでしたら、壊血病の予防、治療は史実より早く解決していたでしょう。多分、暑い地域ですからライムネードとして、現代の清涼飲料水のように飲んだのでしょう。

 その後、海軍本部(Admiralty)は1756年に生のラム酒ではなく、ラム酒を水で薄めてラム酒を配給することを公式な規則として規則に追加しました。ただし、ラム酒に混ぜる水の量は記載されていません。使用する水の量は「船の気候や船内にある水の量にもよる」とのことで艦長の裁量に委ねられていました。通常、3倍の水をラム酒1に混ぜて、合計1クオートのグロッグが配給されました。これは1日2回、決まった時間に出され、通常は午前中の11時から12時、午後の4時から5時の間に出されました。
 また、それまで単に船倉の積荷として扱っていたラム酒の樽ですが、1756年の追加規則により、黒色火薬と同じ危険物として、英国海軍の軍艦はすべからず、万が一の危険と窃盗に備え、蒸溜酒(Spirits)保管庫を水線下の船倉に作り付けることを命じています。オーロップにハッチを設けること、鍵を掛けること、衛兵を置くこと、必要なスペースは、魚(Fish)保管庫のバルクヘッドを移動し、設けることなど細かく指示されています。


 ラム酒を水で薄めて配給することは、ナポレオン戦争中はそのまま続きましたが。航海中酒に酔っている水兵が多くいる(酔っていないことを証明するためには、掌帆手の前で、甲板の継ぎ目を真っ直ぐ歩くことを求められました)こと、不服従、水兵同士のケンカなど規律維持の上で問題が多いこと、すでに水の消毒に有効なカルキが発明されており、1810年代にはフリゲート艦の船倉に鉄製の水タンクを設置する研究が進んでいたこともあり。1823年に配給量が減らされ1/4パイント、1850年には1/8パイントまで減らされました。ラム酒と水の割合は初期から第二次世界大戦までは1:3、第二次世界大戦後は1:2でした。

 英国海軍ではブラック・トット・デー(Black Tot Day)として知られる1970年7月31 日までグロックの配給が続きました(この頃の配給量は1人/1日わずか1/2Gill(71ml))。最後の乾杯の音頭は「女王陛下に !(The Queen !」)だったそうです。(同時に多くの水兵が退役しました。)

BlackTotDay.jpeg
Page Top

ネルソン提督の時代 anchor.png

 ネルソン提督の時代でも100年前とあまり状況は変わりません。王国海軍の規則では

  • 1日1ガロン(4.5l)の薄いビール(Small Bear)を配給すること
  • ビールが無くなったら、ワインを1日1パイント(568ml)配給すること
  • ワインもなくなったら、蒸溜酒(Spirits)を1日1/2パイント(284ml)、水で薄めて配給すること
    と定められたままでした。しかし1792の開戦時、帆走軍艦上ではラム酒1:水3(1パイント10オンス約852ml)が慣行化していました。

     バーノン提督以降大きな改善を見せたのが壊血病対策です。詳しくは別項に譲りますが、壊血病対策に柑橘類のレモン、オレンジ等が有効なことは1601年にはすでに一部の人々には知られていました。しかし、英国でレモン、オレンジが産するわけでも無く、レモン、オレンジは貴族が館の温室で育てて晩餐会に供するような、富を見せつけるものであり、英国では非常に高価な果物だったのです。

     1700年代に入り、王国海軍の医師ジェームズ・リンドによる長年にわたる臨床試験による壊血病対策としてレモン・ジュースと新鮮な野菜を用いる事での壊血病への予防と治療効果が実験により証明されました。キャプテン・クックの長期間にわたる探検航海で実証されたザワー・クラフト等の配給による壊血病対策ですが、海軍傷病船員委員会(Hurt and Sick Borad)の軍医、官僚どもは頑として認めませんでした。

     この状況が一変したのは、1793年に再度フランスとの戦争が勃発したことによります。戦争となれば海峡艦隊、地中海艦隊によるフランス、スペインの軍港の海上封鎖を行うことが王国海軍の基本戦略です。しかし、いつ戦争が終わるのか解らないまま艦隊が海上封鎖を続けることは、壊血病患者続出することが容易に予想されます。当時の糧食で海上封鎖を続けた場合、2週間から20日で最初の患者が出ることが解っており、壊血病対策は急務でした。

     柑橘類ジュース導入への流れを変えたのは、内科医ギルバート・ブレインの功績といえるでしょう。彼は米国独立戦争の際にジョージ・ロドニー提督率いる西インド艦隊の艦隊内科医として西インド艦隊の壊血病患者の大幅な減少に成功した経験がありました。西インド艦隊勤務時にリンドの著作を読み、艦隊全体に「艦内の清潔化、換気、壊血病予防のためのレモン・ジュースの使用」のパンフレットを配布、ロドニー提督の意向を後ろ盾に、「レモン・ジュース、ライム・ジュース」配給を強く押し進め。戦争終了時西インド艦隊の21,608人の船員と海兵隊員のうち、壊血病にかかったのはわずか数百人(熱病:約1000人、赤痢:約700人)という成功を収めており。レモン・ジュースの配給を主とする柑橘類のジュースを毎日配給するのが一番効果的的であると強く信じていました。
     開戦時、彼は、1793年に友人の海軍本部(Admiralty)委員会のメンバーだった海軍少将サー・アラン・ガードナー(Sir Alan Gardener)に、壊血病対策のためレモン・ジュースの配給を助言しました。
     海軍本部(Admiralty)委員会(Admiralty Borad)を説得するため、1794年、砲74門HMSサフォークで新鮮なレモン・ジュースを使った実験が行われました。東インドへの航海の途中、無寄港、無補給、陸地との接触も無く航海をさせ、その航海中2/3オンスのレモン・ジュースと 2 オンスの黒糖をグロッグと混ぜて、船に乗っていたすべての人に与えるというものでした。この実験は行われ、23週と1日(6ヶ月に少し欠ける日数です)の航海で一人も壊血病が原因で失うこと無く成功裡に終えました。航海中壊血病患者5名が発生しましたが、レモン・ジュースの配給量が増すことにより全員壊血病から回復しました。現在ではレモン・ジュース1日2/3オンスの用量では、現代推奨されているビタミンCの1日の最低許容摂取量より少し不足していることが解っています。

     1795年、ブレインは海軍傷病船員委員会(Hurt and Sick Borad)の委員に任命されました。HMSサフォークでの実験の好結果を利用し、彼自身の評判、社会的地位、海軍本部(Admiralty)委員会の多くの委員との親しい知己を利用して、海軍本部(Admiralty)を説得して、イギリス海軍の全艦船に毎日の配給としてレモンジュースを与えるように運動をしました。
     1795年、海軍本部(Admiralty)は海峡艦隊のうちブレストとキブロン湾を封鎖している2つの戦隊にレモン・ジュースと黒糖の供給をすることに合意、実行されました。レモン・ジュースの量もHMSサフォークでの結果から少し増え1日の配給量が3/4オンスに増えました。ただし、これには「船の外科医の裁量で」という但し書きが付いていたのです。~
     ギルバート・ブレインの偉大な功績は、「治療」を試みる前に壊血病の症状が現れるのを待つのではなく、体のビタミンCの貯蔵量が枯渇していくのを見計らって、毎日の予防薬としてレモン・ジュースを飲ませることでした。

     しかし、海峡艦隊の艦隊内科医トーマス・トロッター(Thomas Trotter)の考え方は異なりました。トロッターの問題点は、彼は壊血病の治療薬として柑橘類のジュースを提唱していましたが、予防として使うことには強くに反対していたということです。この「船の外科医の裁量で」という言葉は、海峡艦隊の艦隊内科医トロッターの影響力と相まって、レモン・ジュースが本来あるべきように使われていなかったことを意味しています。彼はレモン・ジュースを毎日飲むと体質が弱くなると信じていました。1800 年にセント・ヴィンセント卿が海峡艦隊の指揮権を引き継いだとき、以前地中海で指揮を執っていたときにレモン・ジュースの有効性を見たセント・ヴィンセント卿は、このことやその他の健康問題でトロッターとほとんどすぐに衝突し、数週間以内にトロッターは更迭されました。

     海軍本部(Admiralty)がブレストとキブロン湾を封鎖している2つの戦隊にレモン・ジュースと黒糖の供給を始めたことは、すぐに英国海軍全体に伝わり、1795年以降の最初の数年間は、レモンジュースは艦や艦隊の要求に応じて供給されていました。しかし、1799年には、海峡艦隊の艦隊内科医トーマス・トロッター(Thomas Trotter)の説得とギルバート・ブレイン(Gilbert Blane)の継続的な運動により、毎日レモンジュースが英国海軍の全艦艇に正式に配給されるようになりました。それは高価でしたが、利点はコストをはるかに上回るものででした。

    Nelsonnile.jpg
     レモン・ジュースは最初スペインから購入していましたが、1796年スペインから英国への宣戦布告により、スペインからの購入は不可能となりました。また、地中海艦隊が地中海から撤退したためシチリア島からの購入も不可能となりました。そのため、西インド諸島の自国の植民地で入手可能かつ安価なライム・ジュースを代わりに購入することになりました。しかし、ライム・ジュースは同量のレモン・ジュースと比較すると、含まれるビタミンCが1/3程度しか有りませんでした。

     1803年地中海艦隊の司令官に任命されたネルソン提督は、壊血病予防にはレモン・ジュースが必要と考え、ナポリ王国の保護国の立場を利用して、シチリア島産のレモン・ジュースを1ガロン1シリング(後に1シリング6ペニー)で年間30,000ガロンのレモン・ジュースを購入する契約を結びました。他国からのレモン・ジュース購入価格は1ガロン8シリングだったので最終的には、シチリア島のレモン畑は英国海軍全体にレモン・ジュースを供給するためのものになっていました。

     19世紀初頭までに、英国海軍は年間5万ガロンのレモン・ジュースを消費していましたが、そのほとんどはマルタの海軍基地を経由していました。1795年から1814年の間に、160万ガロン以上のレモン・ジュースが英国海軍の船に配給されました。レモン・ジュースは、樽にレモン・ジュースを入れた後、空気に触れて酸化しないようオリーブ・オイルを密封された樽に入れられて保存されました。新鮮なレモンは塩漬けにして紙に包み、軽い木箱に入れて保管したり、海水やオリーブオイルに漬けて保管したりしていました。~

     しかし、19世紀半ばにはレモン・ジュースではなく安価に購入出来るライム・ジュースが使われていました。西インド諸島の自国の植民地で入手可能かつ安価なライム・ジュースに変わったと思われます。(1854年の商船法で、私有船に乗るすべてのイギリス人船員に壊血病予防のため薬を提供することが義務付けられており、通常はライムジュースを意味していました。)英国海軍、英国商船隊全体で見たらもの凄い量のライム・ジュース量だったことでしょう。シチリア産のレモン・ジュースが安いとはいえ金額的に続けることは難しかったのでしょう。英国海軍でレモン・ジュースの配給は1867年まで確認できました。

     1日の配給量が3/4オンスのレモン・ジュースでは、生鮮食品がない場合、壊血病を防ぐにはかろうじて十分でしたが、その配給量を3分の1以下のビタミンCしか含まないライム・ジュースに置き換えると、長い航海や遠征で壊血病が再発することになりました。

     英国海軍、英国商船隊全体でライム・ジュースの配給が行われていたことから、米国人は英国人を “lime juicers”と呼び始め、後には英国人のことを”Limeys”と呼ぶようになりました。「ライミー」は米語で、初出は1859年になります。
     よく、ネルソンの時代に英国海軍がライム・ジュースを飲んでいるので、「ライミー」と呼ばれるようになったとの説明がされますが、ネルソン提督の時代の英国海軍は「レモン・ジュース」を壊血病予防に飲用しており、ネルソン提督の時代「ライミー」という語句もありませんでした。
 
Page Top

グロッグの配給 anchor.png

 グロッグは1日に2回決まった時間に配給されました。
  11:30 ”clear decks and up spirits”のボースンズ・コールが響き渡ります。
      (甲板を片付けろ、蒸溜酒(Spirits)保管庫の鍵を開けラム酒を甲板に上げろ!)
  16:00 ”up spirits”のボースンズ・コールが響き渡ります。
      (ラム酒保管庫の鍵を開けラム酒を甲板に上げろ!)
 下士官が当直士官より蒸溜酒(Spirits)保管庫の鍵を受け取り(蒸溜酒保管庫"Spirits room"の場所は船倉(Hold)のメイン・マストとミズン・マストの間右舷から左舷まで船幅いっぱいを占め、オーロップに鍵付き格子ありそこから出入りしました。)、上甲板にラム酒の樽を上げた後、当直士官、主計長立ち会いの下、航海士が計量し、操舵長が大きな桶で混ぜたのち、配給しました。もちろん大勢の水兵も不正が無いか大きな目をして見張っていました。

レモン・ジュースと黒糖は11時30分の配給時に一日分配給されました。

グロッグ レシピ(1人分)1/2クォート=1パイント=568ml(11時30時配給分)

    • Rum 1/4パイント=142ml
    • 水  15オンス=426ml
    • レモン・ジュース 3/4オンス=22.2ml
    • 黒糖 2オンス=59.2ml


グロッグ レシピ(1人分)1/2クォート=1パイント=568ml(16時配給分)

    • Rum 1/4パイント=142ml
    • 水  15オンス=426ml


 配給されたグロッグは「トット(tot)」と呼ばれ、しばしば借金の返却や相手を仲間に引き込む時の好意を買うための通貨代わりとして使用されました。給料が艦上で現金で支払われていた訳では無いので、水兵の多くは小銭程度しか持ち合わせが無く。グロックとの物々交換となった次第です。しかし、この行為は、艦よっては艦長常時服務命令(Standing Orders)で厳しく禁止されていました。なぜなら他の乗組員より多く飲み、泥酔するからです。
また、海兵隊の下士官を含む全下士官は、水で薄めていない生のラム酒が配給されるのが慣行になっていましたが、これも艦によっては、艦長常時服務命令(Standing Orders)で厳しく禁止されていました。

 海軍本部(Admiralty)の規則では、乗組員全員に配給することとなっていましたが、規律違反の水兵への配給は、艦長の裁量で決められました。1ダース、2ダースの鞭打ちを受けるものには、グロッグの配給無し、軽い処罰の場合、6倍、8倍の水で薄めて配給されました。

   また、特別な行事や乗組員全員での重作業が終わるとグロッグの特別配給がある場合が多くありました。これは"Splice the mainbrace"と呼ばれました。何故こう呼ばれるようになったかというと、ヤード(帆桁)を回す動索であるブレース(転舷索)のなかで一番大きなヤードである、メイン・ヤードのメイン・ブレース(転舷索)が戦闘中などに切れた場合、メイン・ヤードを回せなくなり、艦の進路変更が出来なくなります。そこで、速やかにメイン・ブレースのスプライス(組み継ぎ)を行うのですが、艦で一番太い動索のうえブロック(滑車)を通す必要があるのでロング・スプライスが必要でした。掌帆長以下エイブル・シーマン(able seaman)総出の難しい重労働でした。終わったときは、艦長が「ラム酒の特配」を命令しました。これが転化して、ラム酒の特配を"Splice the mainbrace"と呼ぶようになりました。

   ラム酒は、”バット(butt)"と呼ばれる容量が108ガロンもしくは126ガロンの樽に入れられ船倉の蒸溜酒(Spirits)保管庫にしっかりと鍵をかけ大量に格納されていました。ラム酒樽の開封は必ず下甲板のような閉鎖空間ではなく、上甲板もしくは露天甲板などの開放空間で火気厳禁のもと行われました。何故ならアルコール度数95.5プルーフ(54.5%)、火気厳禁の黒色火薬に次ぐ危険物で、下甲板ではランタンの火がうつり火災の危険があったからです。実際に、1779年砲20門フリゲート艦HMSグラスゴーはジャマイカで船倉にラム酒の積み込み中、失火から大火災を起こし焼失しました。
 空になったラム酒の樽も危険でした。樽にはアルコール度数の高いラム酒がたっぷりしみこんでおり、空のまま蓋をしておくと、「使い古された樽にロウソクを近づけて栓を開けると、大砲の音のような大音響ともに火を噴き出した」そうです。ですから主計長には、空になったラム酒の樽はすぐに、海水で洗うことが指示されていました。そうしないと、操舵長は密かに、空になったラム酒の樽に真水を入れ、隠しててしまいます、数日後に取り出すとラム酒に変わっていたのです。

 ちなみに、英国海軍の軍艦がどのくらい酒類を積んでいたかと言いますと。
5等級フリゲート艦総員約300名が短期間(3ヶ月間)航海する場合

  • ビール:25,200ガロン(113,400L)
  • ワイン:12,600クォート(25,200パイント=14,314L)
  • ラム酒:6,300クォート(12,600パイント=7,152L)
    も積まれていました。
Page Top

ラム酒の弊害~アルコール依存症 anchor.png

 ネルソン提督の時代あまり認識されていなかった病気がラム酒の飲用によるアルコール依存症でした。

 ラム酒を初めとするアルコールの配給は、典型的な3K職場である英国海軍帆走軍艦で働く水兵にとって、唯一の楽しみであり、慰めでした。また、ある人には逃げ道でした。艦内には、暖房も、冷房もありません。寒いときは身体を温めてくれるものであり、熱帯では暑気払いにもってこいでした。強制徴募された水兵には故郷の妻子を思う憂いを晴らすものでもありました。ネルソンの時代ですでに200年近い蒸溜酒配給の歴史がありましたから、配給を留めたら英国海軍全体で反乱が起きたでしょう。しかし、強い蒸溜酒を毎日定期的に飲むことは弊害もあったのです。

 寒い、湿った条件の中で非常にハードな肉体労働を1日中続けている水兵にとって、毎日1日あたりビール1ガロンは、あまり害にはなりません。また、1日にパイント1のワインを飲んでも、あまり害にはなりません。現在の考えでは、ワインは、脂肪の多い肉の有害な影響を打ち消してくれるだろうと考えられています。

 しかし、非常に強いラム酒1/2パイントを毎日飲むことは別の問題です。時間はかかるでしょうが、それは取り返しのつかないほどの負担を肝臓に与え、肝臓病へと繋がる危険がありました。慢性的なアルコール中毒症を抱えている水兵が少なからずいたであろうことは間違いがありません。実際の数字はありませんが、マスト、ヤードなど高みからの転落、開いたハッチからの転落、重量物運搬中の落下、低い梁に頭を激しくぶつける、酔っ払いの喧嘩など艦内での事故の多くはラム酒で酔っていたことが原因であるとよく言われていました。

 当時のある外科医の報告によると、英国海軍における精神障害の発生率が一般人口の 7 倍(7000 人に 1 人とは対照的に 1000 人に 1 人)であったと指摘しています。かなりの数の水兵が精神障害と診断され傷病除隊されましたが、その多くはアルコール依存症の進行段階にあったか、酔っ払って低い梁に頭を激しくぶつけた影響が見られたのではないかと考えられています。

 また、かなりの数の将校が、「肝臓病」の段階にあると診断され傷病除隊させられました。将校も水兵に負けず劣らず飲兵衛揃いでした。

 しかし、社会の最底辺にいた犯罪者で、英国各地から「クォーター・アクト」によって刑務所送りでは無く英国海軍に送り込まれた"quota men"と呼ばれる男たちの多くは、最初からアルコール依存症もしくはなどの病気を抱えていたか、アルコール依存症の寸前あった可能性があり、これが数字を歪めたものであった可能性があることが指摘されています。

Page Top

アルコール・プルーフ anchor.png

 人類における、アルコール飲料の歴史は非常に古く、ワインは紀元前6000年頃、ビールは紀元前4000年頃にはすでに醸造されていました。蒸溜酒(Spirits)の登場は紀元前1300年頃のエジプトでナツメヤシから作られたもので、その後中世の錬金術師によつて技術が確立され、アクアヴィテ(生命の水)と呼ばれヨーロッパに広まり、各種の蒸溜酒(Spirits)が各国で登場しました。

 しかし、なぜ酔うのか、なぜ強い酒と弱い酒があるのかはわからない時代が続き、現代のエタノール・アルコールと呼ばれるものが含有されていることにより、酔っ払い、含有量の差で強い酒、弱い酒ができることが解ってきました。しかし、アルコール比重計の登場まで、どのくらいのアルコールが含まれてているのか知る方法はありませんでした。しかし、アルコールがどれくらい含まれているかは蒸溜酒(Spirits)に課税するためには非常に重要でした、試行錯誤の結果、スコッチ・ウィスキーなどをお好みの方ならご存知の、アルコール含有量を示すプルーフ(proof)という単位が英国で16世紀ごろ登場します。方法は、いたって簡単なものでした。

 少量の黒色火薬(Gun Powder)にに蒸溜酒(Spirits)を垂らしてから火をつける。燃えない場合蒸溜酒(Spirits)は不良、ゆっくり燃えれば品質は合格、激しく燃えれば蒸溜酒(Spirits)は非常に上質。この黒色火薬によるテストはプルーフ(Proof)と呼ばれ、この言葉は後にアルコール度数の単位に使われるようになりました。

 推測ですが、黒色火薬が燃える、燃えないの差は、黒色火薬の原料の一つである硝石がアルコールには溶けないが、水には簡単に溶けてしまう事による物と思われます。つまり、アルコール含有量が少ないと、硝石が蒸溜酒(Spirits)中の水に溶けてしまい、黒炭と硫黄(この2つも水、アルコールには溶けません)だけになり、燃えなくなる物(硝石は酸化剤で、燃えると酸素を発生させ、木炭、硫黄も同時に燃やします)と推測されます。アルコールに硝石が溶けなければ、アルコールが燃え続いて硝石が燃え酸素を発生させ、木炭、硫黄も燃え黒色火薬として激しく燃えることになります。

 1741年、このテストの合格品の蒸溜酒(Spirits)を100プルーフと呼ぶことになりました。アルコール含有量57.15%に相当します。この100プルーフを超える蒸溜酒(Spirits)はオーバープルーフ(Overproof)と呼ばれます。

 この黒色火薬を使ったテストはアルコール比重計の実用化がされた1816年まで行われていました。

 英国海軍にこの当時納品されていたラム酒のアルコール含有量は、95.5プルーフ(54.5%)です。黒色火薬(Gun Powder)を使ったことから、「ガンパウダー・プルーフ(Gunpowder Proof)」と呼ばれました。この95.5プルーフのラム酒はブラック・トット・デー(Black Tot Day)として知られる1970年7月31 日まで変わりませんでした。

 このプルーフというアルコールの含有量を示す単位は、英国だけではなく、米国でも使用されています。ただし、同じ単語でもアルコール含有量が違います。
100UKプルーフ=57.15%
100USプルーフ=50%
となります。英国では1980年まで蒸溜酒(Spirits)のビンにアルコール含有量を示すのにUKプルーフを使用していました。

Page Top

ラム酒の納入業者について anchor.png

 初期のラム酒は、各軍艦毎に、最近の寄港地から調達したラム酒を独自にブレンドしていました、そこに1784年納入を独占する業者が現れました。

 物語は1783年、ロンドン市テムズ川の砂糖船着き岸壁地区のすぐそば、ハープ・レーン23番地にジェームズ・マン氏が樽作りと砂糖仲買のための会社E.D. & F. Man社を創設したことに始まります。

 翌年、ジェームズ・マンは、E.D. & F. Man社の事務所から歩いて僅か2分のシーリング・レーン(現在のロワー・テムズ・ストリート)にあった軍需部食料局出先事務所を通じて海軍本部(Admiralty)、海軍委員会(Navy Board)と英国海軍にラムを供給する独占包括納入契約の交渉を開始、無事締結しました。この独占包括納入契約は1970年まで続きました。
このE.D. & F. Man社は現在食料品の総合商社として続いています。

 海軍本部(Admiralty)は独占包括納入契約を締結するにたり2つの条件を付与しました。
 それは、ラムを供給する権利は、船倉に入っていたラム酒が不注意で重要な火薬の上にこぼれてしまう可能性があるため、海軍はラム酒に火薬が染み込んでも発火するような十分なアルコール度数のラム酒を要求しました。それがアルコール度数95.5プルーフ(54.5%)です。このアルコール度数は最低ラインで、100プルーフ(57.15%)でもOKでした。また、英国海軍に高品質の製品だけでなく、同じ味の製品を供給することを満たして初めて成立することを要求したことです。

 ジェームズと彼の会社の社員は、カリブ海周辺のラムを調達して輸入し、テムズ川左岸デットフォードの英国海軍委員会(Navy Board)軍需部食料局の広大な敷地内で、数々のブレンドを試作、ガイアナ(Guyanese)、ジャマイカ(Jamaican)、バルバドス(Barbados)、トリニダッド(Trinidadian)のラムをブレンドして、何千人もの海軍本部(Admiralty)、海軍委員会(Navy Board)の役人や海軍士官を水兵の評価を経て、「英国海軍のラム酒(Royal Navy Rum)」を作り出しました。(常に約400万ガロンのラム酒が大きなオークの樽に貯蔵されていたそうです)

 しかも、ブレンドの改良に取り組み、「英国海軍のラム酒」の品質が向上するにつれ、船乗りたちから高い評価を受けるようになりました。1810年には、一貫した正確なブレンドが確立され、海軍本部(Admiralty)より承認されました。ブレンドの比率は、経済的、政治的な要求にも合わせて、ガイアナ、ジャマイカ、バルバドス、トリニダッドの英国領から調達されたラム酒の比率で決められました。ポットスチルラムの大部分はガイアナ産で、ジャマイカ産のフルボディのラム酒とトリニダッドとバルバドス産の軽めのラム酒がブレンドされているそうです。ただし、初期の「英国海軍のラム酒」は樽熟成はされていなかったと思われますので、口当たりは荒々しいラム酒だったのかもしれません。

 19世紀中頃に「英国海軍のラム酒」の樽熟成が始まります。シェリー酒、ポートワインと同じソレラ方による樽熟成でした。ブランデーは新酒を1回樽詰めすると、その詰めた樽のまま何年も寝かせますが、ソレラ方は3年熟成樽、2年熟成樽、1年熟成樽を準備し、新酒はまず1年熟成樽に樽詰めし1年寝かせます。
 1年後、この樽のラム酒を2年熟成樽に移し2年目の熟成を行います。空になった1年熟成樽には新酒を樽詰めします。2年後、2年熟成樽のラム酒を3年熟成樽に移しさらに1年熟成させます。当然、空になった1年熟成樽には新酒を、2年熟成樽には1年熟成の終わった1年熟成樽からラム酒を移します。3年後、3年熟成樽から出荷用の樽に移し、出荷します。もちろん空になった3年熟成樽には2年熟成樽から、2年熟成樽には1年熟成樽から、1年熟成樽には新酒が樽詰めされます。このプロセスをズット繰り返していきます。ラム酒は、ブランデーなどと違い1年に1回しか新酒が出来るということはありません。原料の廃糖蜜(molasses)は1年中保存しておけるので、1年中新酒造りが可能です。ラム酒に向いた樽熟成方法といえるでしょう。また、3年熟成樽、2年熟成樽、1年熟成樽は毎年空になりますが、樽にはそれまでのラム酒がしみこんでいますし、僅かに前年度のラム酒も残っているでしょうから、熟成もより良いラム酒に仕上がるものと思われます。

Page Top

現在、入手可能な英国海軍御用達のラム酒 anchor.png

Page Top
British Royal Naval Rum anchor.png

 王国海軍にE.D. & F. Man社が独占納品していたラム酒は海軍本部(Admiralty)による秘密のレシピによる特殊なブレンド品で、市場に出回ったことはありませんでした。
 また、レシピも、ガイアナ、ジャマイカ、バルバドス、トリニダッドのラム酒がブレンドされていることが明かされているだけで、どことどこのポットスチルのラム酒をどの比率でブレンドしたものかは未だに明かされていません。

 しかし、1980年と過去の話になりますが、英国海軍が在庫品のラム酒を民間に販売したことがあります。その名も「British Royal Naval Rum」正真正銘の王国海軍が配給していたラム酒です。王国海軍水兵への基金のため、マニア向けに販売されたものです。1ガロン入りの陶器の容器を篭で包んだ状態で販売されました。しかし。想定していた数量は売れなかったそうです。現在、売れ残って販売されている物は約75万円ほどのとんでもない価格が付いています。

British Royal Naval Rum
BritishRoya-NavyRum.jpg
本物のBritish Royal Naval Rum 藤で編んだ篭に包まれた陶器の容器入り、1ガロン(4.5l)入り


 以外では"Splice the mainbrace"としてチャールズ王太子、アンドリュー王子の結婚式の晩餐会などで出されました。おふたりとも英国海軍所属です。

 実はこのラム酒、世界中にまだ眠っている物がありまして、全部集めるとそれなりの量になるそうです。で、現在英国Black Tot社ではそのBritish Royal Naval Rumを世界中から買い集め、再度「Black Tot’ British Royal Naval Rum」として販売しています。木箱入り、700mlボトルで650~1,000ポンド(約9万8千円~約15万3千円)とこれまた凄い価格がついています。ちなみに保管中にアルコール分が少し蒸発して 、94.2プルーフ(54.3%)と少し薄くなっています。もし、あなたが本物のBritish Royal Naval Rumを飲みたいのであればこのラムで決まりです。

Black Tot' British Royal Naval Rum
BlackTotBritishRoyalNavaRum.jpg
本物のBritish Royal Naval Rum 700cc入りで700ポンド以上、木箱入り


Page Top
パッサーズ・ラム anchor.png

 現在、入手が容易な英国海軍のラム酒に近いラム酒はPusser's Rum Ltd.が販売しているパッサーズ・ラム(Pusser's Rum)ですが、この会社実際に王国海軍にラム酒を納品していた会社ではなく、1979年に創業者チャールズ・トビアス氏が海軍本部(Admiralty)と交渉し王国海軍の秘密のオリジナル・レシピによる秘密のブレンド方法を買い。1980年Pusser's Rum Ltdとして会社を設立、オリジナル・レシピどおりにブレンドされたパッサーズ・ラム(Pusser's Rum)として市場で販売しているものです。
 チャールズ・トビアス氏は米国人の元米国海兵隊員です。事業で成功した彼は、英国海軍の帆船時代から1970年まで続いた「ラム酒の配給」にロマンを感じ、いつか「Original Royal Naval Rum」を作ることを考えていました。
 英国海軍の唯一のラム酒供給業者だったE.D. & F. Man社の協力を得、海軍本部(Admiralty)の承認のもと英領バージン諸島にボトリング工場を作りました。
 そして、パッサーズ・ラムのボトルが1本売れるたびに「2アメリカドル」が、英国海軍水兵基金に支払われています。

 海軍本部(Admiralty)のオリジナル・レシピに供給業者だったE.D. & F. Man社の協力もあり、1970年7月31日に制度が廃止になるまで300年以上配給として配られた歴史ある「Original Royal Naval Rum」に近いラム酒です。ガイアナの木製ポットスチルで蒸留されたラム酒に、トリニダッド、バルバドスのラム酒をブレンドし、最低3年は熟成され、木製ポットスチル(木製蒸留器)由来のスムースなまろやかさが特徴のラム酒です。 パッサーズ・ラムは5基のポット・スチルにて生産されています。そのうち3基はガイアナ、2基はトリニダッドにあります。そのラムは芸術的かつ完璧なバランスにてブレンドされエステルなどの風味を生み出しています。他の多くのラムとは異なり、化学的な着色料、着香料を使用していま無いとのことです。


 もちろんネルソンの時代にもなかった会社ですが、雰囲気を味わうには良いかと。一部を除き日本の酒屋、AMAZON.JPでも扱っていますので探してみてください。

 ただし、「Pusser's Rum Gunpowder Proof」から「『パッサーズ ブリティッシュ・ネイビー ラム 54.5%』はトリニダード・ドバゴとガイアナのラムをブレンドしておりましたが、ガイアナ産ラム100%にリニューアルされました!」されたそうなので、オリジナルレシピと違うことになります。

Pusser's British Navy Rum54.5%
britishnavypussersrum.jpg
通称Blue Label オールドボトルはアルコール表示がプルーフ表示 在庫無し


「Pusser's Rum Gunpowder Proof」は以下の2醜類の在庫が市場に有るようです。


ガイアナのラム酒をメインにトリニダッド、バルバドスのラム酒をブレンドした54.5%のPusser's British Navy Rumがこちら。

Pusser's Rum Gunpowder Proof 54.5%
71PFac-jAZL._AC_SL1500_.jpg
GunpowderproolLabel.jpg
ガイアナ産ラムをメインにトリニダッド、バルバドスのラム酒がブレンドされています
54.5%のPusser's British Navy Rumボトル。買うのならこちら



Pusser's Rum Gunpowder Proof 54.5%
gunpowderproof.jpg
54.5%のPusser's British Navy Rumボトルただしブレンドがガイアナ産ラム100%
ガイアナ産ラム100%でトリニダッド、バルバドスのラム酒がブレンドされていないので、Navy Rumとは呼べない
このボトルには手を出さない方が良いかと




 2020年12月現在、入手可能な海軍本部(Admiralty)オリジナルレシピ・ブレンド54.5%のパッサーズ・ラムは、今年2020年ブラック・トット・デー(Black Tot Day)から50周年記念として限定発売された「Pusser's British Navy Rum Black Tot Day 50th. Anniversary」のみとなります。英国のみの販売で5千本限定(シリアルNo.入り)でした。日本では販売されず、英国での販売のみなので、日本のある酒屋さんがなんとか90本かき集めて販売しています。
パッサーズ社では「完売」なので、あとは英国内の酒屋さんの在庫のみになります。

Pusser's British Navy Rum Black Tot Day 50th Anniversary
PussersBlackTotDay50thAnniversary.jpg
限定5000本、市場在庫のみ。オリジナルレシピ且つ15年熟成、極上の1品


Pusser's Rum Overproof (Green Label)
PussersRumOverproof.jpg
US150プルーフ(75%) こんなのもありました
ガイアナ、トリニダッド、バルバドスの原酒をブレンドしたNavy Rumです


Pusser's British Navy Rum
PussersRum.jpg
PussersBritishNavyRum42.jpg
ブルー・ラベルに似ているので気をつけて欲しいのがこの2本、アルコール度数40%、42%
アルコール度数も足りず、ブレンドも曖昧なので、British Royal Naval Rumとは呼べないラム酒です。


Page Top
Black ToT anchor.png

Black Tot' British Royal Naval Rumを販売している同社ですが、「Black Tot' British Royal Naval Rum」は在庫限りであり、サイトを見るとすでに新たにネイビー・ラム製造を模索しているようです。すでにBlack Tot Dayから50周年記念の「Black Tot 50th Anniversary Rum 54.5%」というネイビー・ラムを5,000本発売しています。説明を読むとガイアナのラム酒をボディにトリニダッド、バルバドス、ジャマイカのラム酒をブレンドしているそうです。 パッサーズ・ラム社が最近、ガイアナのラム酒100%でブリティシュ・ネイビー・ラムを称し手抜きをしているので、今後どのような存在になるのか楽しみです。


Black Tot 50th Anniversary Rum 54.5%
BlackTot50thAnniversaryRum.jpg
Black Tot Dayから50周年記念5,000本限定
ガイアナのラム酒をメインにトリニダッド、バルバドス、ジャマイカのラム酒をブレンドNavy Rumです



Page Top
Royal Navy Rumの最低限の定義 anchor.png

世界のラム酒には「パッサーズ・ラム」以外に、「Navy Rum」をうたうラム酒が存在します。しかし、下記4点の条件を満たせていないものばかりです。

  • 木製ポットスチルで蒸留されていること
  • ガイアナ産をメインに、最低バルバドス、トリニダッドのラム酒がブレンドされていること。出来ればジャマイカのラム酒もブレンドされていること。
  • 最低3年以上の樽熟成がされていること
  • アルコール度数は最低54.5%(95.5UKプルーフ)であること


Page Top

ラム酒あれこれ anchor.png

Page Top
Nelson's Blood(ネルソンの血) anchor.png

 トラファルガー海戦で戦死したネルソン提督の遺体を、 ウィリアム・ビーティ医師は遺体保存して帰国すべく遺体を一番大きな樽に入れ、ブランデーで満たして封をして、メインマストの脇に置き、海兵隊員の見張りもつけました、ところが、遺体保存のためラム酒の樽に漬けられたものを、偉大なネルソンにあやかろうとした水兵たちが盗み飲みしてしまい(樽に穴を開け、ストローで吸い尽くした説もあり)、帰国の際に空っぽになっていたという。このためラム酒が「ネルソンの血」と呼ばれるようになったという逸話があり、ラム酒を飲むことを「提督を飲む」などという言い方もあります、信じている人も多いですが、元はJolly Tarの与太話、まあJolly Tarらしい逸話ですが、違います。満たされたのは、ブランデー(コニャック)です。複数の当事者による数々の証言が残されていますので間違いありません。

Page Top
グロッキー anchor.png

 ボクシングで打たれ負けてふらふらの状態をグロッキーと呼ぶ事がありますが、グロッグを飲み酩酊状態に陥った者という意味の「グロッギー(groggy)」が転訛したものです。
OEDによりますと、初出は1834年になります

Page Top
Stand fast the Holy Ghost! anchor.png

「聖霊よ立て!」、グロッグの配給が始まるまえに”up spirits(こちらも「聖霊よ立て」と訳せますね”のボースンズ・コールが鳴り響きますが、それを聴くと水兵達は続けて小声で‘Stand fast the Holy Ghost!’「聖霊よ立て!」とつぶやくのが習わしでした。ナポレオン戦争以降始まった、まあ、Jolly Tarの言葉遊びです。

Page Top
Pusser anchor.png

 パッサーズ(PUSSER’S)社のPusserとはネルソンの時代以前からの語句でパーサー(Purser):主計長のことです。"Purser”を間違えて「パッサー」と呼んだのが始まりで、そのまま定着してしまいました。なので"Purser"と書いても王国海軍での発音は"パッサー"でした。

Page Top
「北」「西」「北西」「南」  anchor.png

 陸上にいて自由に好きなだけ飲んでいたとき、船乗りは自分の蒸溜酒(Spirits)の飲み方を簡単な俗語で表現していました。「北に向かって」はコップの中身は全て生の「ラム酒」を意味し、「西に向かって」は「水」だけを意味し、「北西」は「水」と「ラム酒」の「ハーフ&ハーフ」現していました。「西北西」は「1/3ラム酒、2/3水」、「北北西」は「2/3ラム酒、1/3水」、「南」はコップは「空っぽ」の意味でした。


最終更新: 2021-12-12 (日) 18:21:52 (JST) (1076d) by 只野四十郎
Copyright (C) 2002-2006 只野 四十郎(Tadano Shijyurou).All Rights Reserved. 当サイト内の全ての文章、画像、資料の複製、転用を禁じます。
当サイト管理者が著作権を有しない画像を使用しています。それらはいかなる理由があろうと、複製、転用を禁じます。詳細は著作権(Copyright)をご覧ください。